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ゲームとことば 「生きるという事は、恥にまみれるという事だ」

f:id:blackstream001:20211210081118p:plain“生きる”とはなんだろうか。人間であれば、人生で一度は考えたことがある命題ではないだろうか。

仏教には生老病死という用語がある。生まれること、老いること、病にかかること、死ぬことは人間として避けられない4つの苦しみである、という考え方だ。また仏教には”この世のすべては苦しみである”という一切皆苦と呼ばれる考えもある。これらに基づけば、生きることは苦しむことと同意である。

また「神は死んだ」という名言で有名なニーチェを代表とする哲学的な考えにニヒリズムというものが存在する。虚無主義とも呼ばれるこの考え方によれば、人間の存在や人生には意義や目的などは存在しないという。“生きる”ことの意味を真っ向から否定する考えだ。

 

“生きる”とは苦しく、意味のない行為なのであろうか。それに対する1つの答えとなりうるのが、2017年発売『NieR:Automata』内に出てきた、ポッド153による以下のセリフである。

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生きるという事は、恥にまみれるという事だ。

 

このセリフは真エンディングのスタッフロール後に流れるものなのだが、ネタバレを避けた上で、なぜこのセリフがプレイヤーの心を動かすのかという経緯を説明したい。

そもそもポッド153はその名の通り、人間ではない。知的生命体ですらない。主人公の2Bや9Sを随行支援するサポートユニットである。その思考回路はプログラミングされたものであり、自我や感情というものは存在しない…少なくともそのはずであった。

ストーリーのネタバレとなるため、ポッドが自我を得た経緯は省略させてもらうが、『NieR:Automata』のストーリーにはヨコオタロウ氏の作品によく見られる、いわゆる“鬱展開”が多く含まれている。「命もないのに、殺しあう」というキャッチコピーの通り、アンドロイドと機械生命体という機械同士が殺し合うというストーリー。しかし主人公たちアンドロイドは様々な機械生命体と戦い、触れ合い、交流する中で、次第に彼らにも意志や感情があるのではないかと考え始め、自分たちとの違いはなんだろうかと自らに問いかけるようになる。そんな中、彼らは自分たちYoRHa部隊の存在意義を根底から覆し、また否定するような衝撃的な事実にたどり着き、とあるキャラクターはそれを知って半ば自暴自棄になってしまったりするのだが、こちらもネタバレ回避を理由として詳細は伏せさせていただく。

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つまり『NieR:Automata』という作品は、“生きるとは”を問いかけるゲームなのではないだろうか。自分の存在意義に疑問を抱いたり、自らの生きている理由を否定されたりすれば、人間は簡単に絶望を抱きうるだろう。“生きる”という行為は苦しみや悲しみにあふれている。“生きる”ことを放棄したくなる時だってあるだろう。『NieR:Automata』はそれをいやというほど痛感させられるような”鬱展開”をプレイヤーに真正面から突き付けてくる。

では“生きる”とは一体なんなのか。それに対するヨコオタロウ氏なりの答えが、上に記したポッド153のセリフなのではないだろうか。少なくとも、プレイしていた当時の私はそのように感じ取った。個人的にこのセリフが印象深かった理由として、ほかでもないポッド153がこのセリフを述べたという点が挙げられる。アンドロイドは人間に酷似した見た目であるほか、個体差はあれ機械生命体も比較的人間に似た構造をしているものが多い。そんな彼らが上記のセリフを述べたところで、「よさげなことを言っているな」としか私は思わなかっただろう。ただの随行支援ユニットであるはずのポッドが、自我や感情を持たないはずであったポッドが、“生きるとはなにか”に対する答えを述べる。この矛盾とも思える演出が、私の心を打ったのだ。

 

実はかの有名な文豪である夏目漱石も「私はすべての人間を、毎日毎日恥を掻かくために生れてきたものだとさえ考える事もある」(硝子戸の中)という、似たような言葉を残している。生きるという事は、恥にまみれるという事だ。であるのなら、恥を晒すことを気にしたり恐れたりすることをせず、日々を前向きに生きていけばいいではないか。このセリフはそんな励ましなのではないかと、私には思えてならない。確かに生きることは苦しいし辛い。しかし恥をかくことを恐れ、なにか新しいことや難しいことに挑戦する姿勢を忘れてしまえば、“生きる”という行為の良い半面を享受することはできないのではないだろうか。確かに生きることに意味はないのかもしれない。だがそれを受け止めた上でどう生きていくのか、それこそが大事なのではないだろうか。

 

ちなみにではあるが、英日ゲーム翻訳者らしい補足をすると、上記のセリフは英語版だと

Being alive is pretty much a constant stream of embarrassment.

と訳されている。

「恥ずかしい」を表す英語表現には(be) ashamedと(be) embarrassedの2種類があるが、前者は非常識なことや非道徳的な行為を行った際に感じる「罪の意識」のような恥に重点が置かれているのに対し、後者は失態や間違いを犯した際に他人に対して感じる「気まずさ」のような恥を表現している。そのため、このセリフの英訳としてshameよりもembarrassmentの方がピッタリなのだ。またstreamは「流れ」という意味の単語だが、転じて「なにかが連続したもの」を表すことがある。なので、この英語版のセリフを日本語に再翻訳すると「生きるという事は、恥をかく事の連続だ」などとなるだろうか。

 

ここまで長々と書き連ねてきたが、『DoD』シリーズや『NieR』シリーズを象徴するあのセリフでこの記事を締めくくりたいと思う。

 

本当に、本当にありがとうございました。